女子大小路の名探偵

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第6回

「ニアミス」

 広中大夏が、夜の公園で女の子の死体と遭遇した夜。そして、見知らぬ男に背後から「おい」と声をかけられた夜。姉の美桜は、いつものように岐阜のクラブ「グレイス」で働き、23時過ぎに、同僚たちより少しだけ早く仕事をあがった。

 更衣室で、形の良い鎖骨が程よく覗く青のナイトドレスを脱ぎ、白のジャージの上下に着替え、ハイヒールの代わりにジョギング・シューズを履く。

 「毎晩毎晩、よく続くわね」

 振り向くと、チーママの萩原みさきが立っていた。

 「ジョギングしながら帰るんでしょ? 美桜ちゃん家、ここから2㎞くらい?」

 「そうなんですけど、2㎞じゃ物足りないんで、長良川温泉のところの橋まで走ってから、Uターンして帰ってます」

 「ええ? 美桜ちゃん家って、玉宮通りの先でしょう? 真逆の方向やないの!」

 「大好きなんです。夜の長良川の音を聞くのが。それに、逆方向って言っても、全部で10㎞くらいですよ」

 そう言いながら、容量6リットルの小さな赤いリュックを背負い、手には水分補給用のペットボトルを持つ。ここ最近愛飲しているのは「逃げない水素水36」という、クリアなペットボトルに入っている水素水だ。これを飲み始めたと話すと、店の客から何回もバカにされた。

 「美桜ちゃん。水素はとっても小さな原子だから、普通のペットボトルだとあっという間に抜けてしまってただの水(略)」

 「それを言うなら原子じゃなくて分子だろ。あと水素が抜けるのはバブリング方式を使っているからであってこの『逃げない水素水』は……」

と猛反論し始めて、チーママのみさきに何度もたしなめられた。美桜も専門家ではなく、知識は全部とある男性からの完全な受け売りだったので、その時は大人しく引き下がった。

 (あの人の話し方は素敵だったな)

 そんなことを思い出す。

 (や、話し方じゃなくて声そのものかな)

 彼の名前は畦地弦一郎。大学の先生だ。

 店の前で軽くストレッチをし、靴紐を締め直す。そして、金華橋通りを自宅とは真逆の北方向に。そのまま老舗旅館の十八楼まで進む。ここの露天風呂が美桜は大好きだ。その十八楼の目の前の橋で、一回休憩を入れる。スマホを取り出して、畔地からメールが来ていないか確認する。

 今夜も来ていない。

 「……」

 ちなみに、美桜と畦地は恋愛関係ではない。個人的にふたりで会ったこともない。美桜が畦地を知ったのは、今から一年ほど前の、岐阜大学の公開授業だった。その頃、美桜は原因不明の蕁麻疹に悩んでいて、体質改善を切望していた。「水素が良いかも」という記事はネットにたくさん出ていたが、同じくらい「水素水はエセ科学」という記事もあった。それで水素の専門家による公開授業が無いか調べて、美桜は岐阜大学まで出かけて行ったのである。授業を終えて自分の研究室に帰ろうとする畦地を捕まえ、質問責めにした。彼は嫌そうな顔ひとつ見せず、また難しい単語は全く使わず、とても親切な対応をしてくれた。やがて次の授業の開始時間が迫ってきたが、美桜にはまだまだ質問したいことがたくさんあった。と、畦地は美桜に自分の名刺をくれ、「では続きはメールで」と言って去って行った。美桜はメールをした。三日後、丁寧な返信が来た。それ以来、時々、美桜は畦地に質問メールを送るようになった。迷惑にならないよう、二ヶ月に一度くらい。いつも、三日ほどで返事が来る。美桜の質問にだけフォーカスされた回答で、それ以外の余計な文章は無い。勇気を出して、一度、メールのお礼にお食事でも、と誘ったが、それは断られた。

 (脈、無いよなー)

 ため息をつきながら、スマホをリュックにしまう。と、その時、いつの間にか美桜の近くに来ていたクルマが、「プップ」と控えめにクラクションを鳴らしてきた。そして低速で美桜の前に来て、運転席のパワー・ウインドウをスルスルと下げた。

 「美桜ちゃん! 奇遇だね!」

 満月のような丸い顔が現れた。「グレイス」の常連客である、弁護士の望月だ。

 「先生? なんでここに?」

 「え? そんなのもちろん偶然だよ。でも白いジャージじゃなきゃ見つけられなかったかも。うん」

 望月はそうニコニコと上機嫌に話す。

 (偶然なわけあるか! 白いジャージって前もって知ってるじゃん)

 「そんなことよりさ、この車どう? 格好良くない?」

 望月は、真っ赤なダイハツ・タントに乗っていた。

 「新車だよー。美桜ちゃんのリュックに合わせて、赤にしてみた♫」

 「あれ? 先生この前お店でスポーツカー買ったって言ってませんでしたっけ。ドアが空に向かって開くやつ」

 「ま・さ・か! 無い無い無い。がぶがぶガソリン使ってリッター10㎞も走れない車って地球の敵だとボクは思ってるから。ちなみにこの車はエコカー減税の対象だし自動ブレーキとスマホ連携のコネクトサービスもついてるし、簡単な仕様変更で福祉車両っぽくもなるんだ。最高だよね」

 (おい、デブ。そのセリフ、全部、私が店で言ったまんまじゃないか)

 そう美桜は心の中で毒づいたが、口には出さなかった。と、望月は更に上機嫌に、

 「実は今日はプレゼントがあるんだ」

 と言いながら、大きな背中を丸めて、助手席のバッグをごそごそと探り始めた。

 「ジャーン! 実はこれ、美桜ちゃん愛用の足リラシートの会社が、今度出す新商品! じんわり温かくなるフェイスマスクで、化粧水とかの浸透率をグッと高めてくれてリラックス効果も抜群! 情報解禁前なんだけど、取引先の人がわざわざ貰ってきてくれたんだ。どう? 驚いた?」

 「はい。すっごく驚いてます」

 露骨な待ち伏せに、プレゼント攻撃。おまえは中学生か、と言いたくなる気持ちをグッと抑えて、美桜は大人な返事をした。確かに美桜は、ジョギングをした後には必ず「足リラシート」を土踏まずに貼って寝ている。だがそれを、店でお客さん相手に話したことはない。

 (みさき姉さんだろうな。望月先生、いつも援護射撃を頼んでるものなあ)

 と、美桜のスマホが鳴り始めた。

 (メール? いや、この音は電話の着信だ。まさか、畦地先生から電話?)

 慌ててもう一度、リュックからスマホを取り出す。着信画面を見る。

 『着信:バカ弟』

 ガックリ来た。こんな深夜に大夏は私に何の用だ

 「もしもし」

 と、今まで聞いたことがないような弱々しい弟の声が聞こえてきた。

 「姉ちゃん……助けて。俺、このままじゃ殺人犯にされちゃう……」

 「は?」

 「何にもしてないのに……刑事とか、みんな、すごく俺を責めてきて」

 「あんた、今、どこにいるの?」

 「警察。名古屋の」

 「え? 昨日からずっと警察にいるの?」

 「違う。一回釈放されて、家に帰って、 職場行って、公園行って、そしたらそこに女の子の死体があって」

 「死体!」

 「それでさ。姉ちゃん。姉ちゃんの知り合いに、弁護士の先生とか、いない?」

 「え……」

 美桜は、真っ赤なダイハツ・タントの方を振り返った。望月は、美桜へのプレゼントを抱えたまま、クルマを降りて幸せそうに月を見上げていた。

 「先生。この前、ドライブに行こうって誘ってくださったの、覚えてます?」

 「もちろん! ぼくの助手席は、いつでも美桜ちゃんのために空けてあるよ!」

 弾むような声で、望月が答える。

 「そのドライブなんですけど、今からっていうのはありですか?」

 

 ふたりが名古屋市の中警察署に着いた時には、時刻はとっくにてっぺんを過ぎていた。健康のためには、まずは良質な睡眠。それで美桜は、ふだんは頑なに自分の睡眠サイクルを守っているのだが、今夜は諦めざるを得ないようだ。望月は、警察署内に入った瞬間から雰囲気がビジネス・モードに変わった。店で見せる幼児っぽさは消え、対応に出てきた刑事課の人間と、法律用語を駆使して大夏との面会と即時の解放を求めている。とりあえず、美桜は深呼吸をすることにした。

 (落ち着こう。大夏はバカでクズで親不孝のかたまりみたいなやつだけど、人を殺すとは思えない。さすがに、それはない)

 深く息を吸い、ゆっくりと吐く。と、中警察署の深夜受付所の前に、ひとり、男が現れた。当直の警察官が望月の喋りを一度手で制し、その男に向かって「どうされました?」と尋ねた。

 「先ほど電話した佐野と言います。小学生の娘がまだ家に帰ってこなくて……」

 と言いながら、男は、両手の白い手袋を外す。

 (この人、なんで手袋なんかしているんだろう……)

 なぜか引っかかるものを感じて、美桜は、その男の顔をもう一度、見た。