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第5回
「死体発見」
二度目の逮捕の話をしよう。
皆さんは覚えているだろうか。広中大夏という若者が、初対面の女性から喫茶店でストーカー呼ばわりされ、顔面に水をかけられ、抗議をしようと追いかけたら居合わせた刑事に強烈なパンチを喰らわされ、そのまま一度目の逮捕となったことを。
「君が素直に反省しないなら、傷害罪で本当に書類送検するよ? いいの?」
「そもそも、水をかけられるようなことをしたんだろう? ストーカーだっけ?恥ずかしくないの? 男として」
大夏は釈放されたい一心で警官に頭を下げ、身元引受人として、岐阜の柳ケ瀬で働く姉の美桜の連絡先を教えた。警官は電話をかけに出て行き、やがて肩をすくめるようにして戻ってきた。
「『一生そこにいて朽ち果てろ』それが、お姉さんからの伝言だ」
「え……」
身元引受人が見つからないと、留置場から出られない。母は認知症で電話に出られない。姉の美桜は無慈悲にも迎えを拒否。そのせいで、釈放は翌日の午後までかかった。大夏が働くバーのオーナーの高崎順三郎が、露骨に迷惑そうな顔をしながら、身元引受人として署まで来てくれた。
「誤解なんですとか、そういう言い訳はどうでもいいんだ」
署を出るなり、高崎は大夏に言った。
「私は警察というものが大嫌いなんだ。次、私をこんなところに呼び出したら、即座に君をクビにするからね」
「はい。わかりました」
(なんてこった……俺、何一つ悪いことはしてないのに……)
女子大小路に戻り、池田公園から瓦通りを東に。高速道路の下をくぐってすぐのアパートでシャワーを浴び、干しっぱなしの洗濯物を取り込み、冷蔵庫の残り物を腹に入れたら、もう本日の出勤時間だ。「タペンス」に行く。店のドアに、昨夜のメモが貼りついたままだった。
「ちょっと外出しています。冷蔵庫のビールでも勝手に飲んでいてください」
昨夜の浮かれた自分を思い出して、大夏は凹んだ。カウンター裏にあるゴミ箱にクシャクシャに丸めて捨てる。なぜ、麻実子は待ち合わせ場所に来なかったんだろう。麻実子は今どうしているんだろう。なぜ、自分がストーカーだなんていう誤解が起きたんだろう。LINEではなく電話をしてみよう。落ち着いて。冷静に。そんなことを考えながらスマホを取り出した時、店の入り口のドアベルがカランカランと鳴った。
「え……」
驚きのあまり、大夏はスマホを落とした。立っていたのは、昨夜、大夏をストーカー呼ばわりして水をかけた女性だった。
「あの……昨日はすみませんでした」
彼女は深々と頭を下げた。彼女は、今日は地味な濃紺のパンツ・スーツだった。
「実は、あの後、麻実子と話をしたんです。ストーカー行為はやめろってガツンと言ってきたからねって。そしたら、麻実子のリアクションがなんか変で」
「は?」
「変っていうか、急にソワソワしだして、水をかけたのはやりすぎだとか、警察が出てきたのはまずいよとか言い出して。で、ちょっと待って、ストーカーなんだよね? 麻実子、もしかしたらその男に殺されるかもとか言ってたじゃんって問い詰めたら」
「え? 麻実子、俺のことそんな風に言ってたの?」
「はい。だから私、友達としてあの子のこと守らなきゃって思って。なのに麻実子、急に『ごめん』とか言い出して」
その後の彼女の説明を要約すると、
・麻実子は、新しい男が出来たから古い男と別れたいと思った。
・でも、古い男はバカで、別れたいというサインに全然気が付いてくれない。
・その上、古い男は押しが強い。そして、自分は押しに弱い女だ。
・別れ話をしに行っても、結局別れられずに次のデートの約束をさせられそうだ。
・なので、気の強い性格の友達に、代理で別れ話をしてくれと頼んだ。
・その時、弾みで少し話を盛ってしまい、 古い男がストーカー化して困っているという話になってしまった。
ということだった。大夏は、びっくりするやら腹が立つやら悔しいやら情けないやら、とにかく複数の感情が怒涛の如く押し寄せた結果、終始「はあ⤴」と「はあ⤵」しか口に出来なかった。彼女は一通り説明すると、最後に、
「なので、もしよかったら、あなたも私の顔に水をぶっかけてください」
と言った。
「それで気が済まなかったら、一発殴ってもOKです」
そう言って、真っ直ぐに大夏のことを見つめてくる。
(やばい。そういえば、めっちゃ俺の好みの顔だった……)
大夏はそう心の中で呟いた。
「もういいよ」
大夏は言った。
「こうやって謝りに来てくれただけで、俺はもう別に」
と、彼女が「あ!」と大声を出した。
「? 今度は何?」
「私、忘れてきちゃいました。何かお詫びの品って思って、ピエール・プレシュウズのガトージャポネ買ったのに」
「はい?」
ピエール・プレシュウズのガトージャポネは、ふわふわのシフォンの上にクリームがたっぷりかかっている、それはそれは美味なショートケーキなのだという。彼女は、それを一度取りに帰るという。「そこまでしなくて良いよ」と大夏は何度も言ったのだが、彼女も「せっかく買ったし」「生なので日持ちしないし」などと譲らず、「でも、夜の繁華街を女の子がひとりで歩くのは俺はあんまりオススメしないよ」とまた大夏が言い、結局、「店に貼り紙をして、大夏も彼女と一緒にそのケーキを取りに行く」という話になった。
「ちょっと外出しています。冷蔵庫のビールでも勝手に飲んでいてください」
昨日の紙は捨ててしまったので、同じ文章を新しく書いてドアに貼る。そして、店から徒歩で15分くらいの老松公園という所まで、ふたりは歩き始めた。その公園の近くに彼女の家はあり、その家の冷蔵庫にケーキはあるのだという。
「名前、聞いてもいい?」
「……秋穂です」
「へええ。秋穂ちゃんって言うんだ」
老松公園まで、良い雰囲気で話をした。秋穂が地味なスーツを着ているのは、彼女がお堅い公務員だかららしい。と、公園の手前で、一台の車が飛び出してきた。猛スピードで角を膨らむように曲がってきて、あわやふたりとぶつかりそうになった。
「あぶねーな!」
思わず大夏が怒鳴る。
「なんだよ、今の。見た? 運転してた男、夜なのにサングラスはしてるわ、マスクもしてるわ、手には白い手袋してるわ。どんな変態? 完全に頭おかしいよ」
大夏がまくして立てると、秋穂は、
「世の中、変な人が多くて怖いですよね。大夏くんに送ってもらって良かったかも」
と、小さな声で言った。そういえば、少し前に「俺のことは大夏って呼んで」と言ったのだった。実際にそう名前で呼ばれると、とてもくすぐったく、それでいてハッピーな気持ちが溢れてきた。ありがとう、暴走車! おまえのおかげで、俺たち距離が縮んだかも! と、老松公園に着いた。この公園は小学校のすぐ隣にあり、昼間はそれなりに人もいるのだが、日没後の今は無人だった。
「ちょっとここで待っててもらえます? すぐに取って戻ってくるんで!」
秋穂はそう言って小走りで去った。
(そりゃ、知り合ったばかりの男を、家まで連れていくわけにはいかないものね)
そんなことを思いながら、大夏は、公園の中央にある大型遊具に腰をかけた。青いすべり台が二つと緑のすべり台が一つ、合体して大きな城みたいになっている。青いすべり台の上には二つを繋ぐように三角の屋根があり、緑色のすべり台の上には、半透明のドームがくっついている。
(あれ?)
大夏は、ドームの中に子供がじっと座っているのに気がついた。長い髪。女の子のようだ。俯いて、そのまま動かない。
(こんな遅い時間に、子供がひとり?)
大夏は、その子に声をかけた。
「ねぇ。大丈夫?」
女の子は返事をしない。大夏は、遊具によじ登り、その子を揺り起こそうとした。
「こんなところで寝てると風邪ひくよ?」
女の子は起きなかった。それどころか、大夏が軽く触っただけで、ずるずると崩れるように倒れ、小さな頭を下側にしたまま、滑り台の斜面を地面まで滑り落ちた。
「え……」
地面に当たって、女の子の顔の向きが、 大夏の方に変わった。見開かれたままの 目。瞬きをしていない。鼻と、半開きの口には、微かに血の跡のようなものがある。
(まさか、し、死んでる?)
脳裏を最初によぎったのは、さっきの暴走車だった。夜なのにサングラス。更にマスク。わざわざ嵌めていた白い手袋。
(まさか……)
大夏は、慌てて遊具の上から飛び降りた。と、その時、
「おい」
大夏は、背後から声をかけられた。