女子大小路の名探偵

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第4回

「美女と野放しの獣」

 「ここでクイズです」

 歓楽街として、日本有数の歴史を誇る、岐阜県・柳ケ瀬。その柳ケ瀬で、もっとも高級と言われる「グレイス」というナイトクラブでは、弁護士の望月康介が陽気な声を上げていた。丸い輪郭の顔に、少し離れ気味の両目。丸い鼻。太い唇。本人はよく「『となりのトトロ』に出てくるネコバスにそっくりと言われるんだ」と自分の容姿を説明するが、それは少しネコバスに失礼である。ちなみに、身長は190センチで、腹も出ている。

 「え〜、先生、クイズですか? 何かしら?」

 望月の右隣りに座っているホステスの萩原みさきが、ちょっと大げさに黄色い声をあげる。彼女は本来はもっと落ち着いたタイプなのだが、望月の左隣りの女の子がまったく場を盛り上げてくれないので、今夜はふたり分頑張らなければと必死になっていた。

 「ぼくが最近買ったクルマは何でしょう! 質問は三つまでOK! 正解した人には、助手席の初乗りドライブにご招待! さあ、頑張って!」

 そう言いながら望月は、ドアを空に向かって開ける仕草を何度もした。

 (なるほどね。ガル・ウイングね。望月先生、ランボルギーニを買ったのね)

 が、みさきはもちろん、正解は言わなかった。望月は、美人だがとても愛想の悪い、自分の左隣りの女に正解を言って欲しいのだから。

 「ええと。それって私に『うわっ、ステキ!』とか言わせたい車ですか?」

 退屈そうに、その左隣りの女は言った。

 (もう少し楽しそうな声を出してよ)

 みさきは心の中でため息をついた。

 「もちろんそうだよ。絶対に美桜ちゃんもステキ♡って言ってくれるよ!」

 自信満々な様子で望月は答える。

 (でも、この人メンタルが鋼ねはがね。美桜と良い勝負かも)

 そんなことを思いながら、みさきは望月のグラスに、ウイスキーと割り水を追加した。そしてついでに、自分のグラスにその割り水だけを注いで飲んだ。ちなみに、「グレイス」では、高賀の森水という日本でも屈指の名水を使っている。岐阜が世界に誇る水。その滋味あふれる甘さは、少しだけこの場のストレスを緩和してくれる。

 「ドライブはどこが良いかな。最初は近場で、長良川温泉とか? 海津温泉とか? それとも菰野の湯の山温泉とか? さ、質問して。質問して」

 望月がはしゃいだ声で左隣りの女を急かす。仕方なく、その子は質問をした。

 「その車は、燃費第一のファミリー・カーですか?」

 「え? どうして?」

 「どうしてって……私がステキって言う車ですよね? 私、がぶがぶガソリン使ってリッター10キロも走れない車って、地球の敵だと思ってますから」

 「え? そうなの?」

 「はい。あ、その車って、エコカー減税対象ですか? 自動ブレーキはついてますか? スマホ連携のコネクトサービスはついてますか? あと、これからの時代、介護の問題って避けて通れないじゃないですか。だから、簡単な仕様変更で、福祉車両っぽくなってくれたりすると最高ですよね。そういうの、めっちゃステキだと思うんですけれど、そういう車ですか?」

 「……」

 望月が黙ってしまう。メンタルが鋼というのは案外見せかけだけだったようだ。そろそろ話題を変えなければ……そう、みさきが思った時、テーブルに、新人の黒服がやってきた。

 「失礼します。美桜さん。お電話が入ってます」

 「電話? 私に?」

 そう左隣りの女が答えるのと、望月が、

 「今はおれと飲んでるんだよ。他の客の電話なんか繋ぐなよ」

 と不機嫌そうに拗ねるのが、ほぼ同時だった。若い黒服はちょっと困ったような表情になり、そして言った。

 「それが、警察からなんです。愛知県警」

 警察……それも愛知の警察と聞いて、広中美桜の中に嫌な予感が広がった。自分と、愛知の警察を結びつけそうな存在はひとりしか思い浮かばなかった。

 

 同じ日の夜。

 岐阜の柳ケ瀬から40㎞ほど離れた名古屋では、ウレタン製のライト・グレイのマスクをした男が、市営の地下鉄東山線に乗り込んだ。シルバーの車体に黄色いライン。いつもと同程度の混雑。男は少しだけ気が休まるのを感じた。最近、テレビのワイドショーが「人と人との距離」について口やかましく報じるようになってきた。が、男は、「混雑」というやつが好きだった。ある程度まとまった空き時間が出来ると、男は人混みを目指す。他人と肩が触れ合うくらいの混雑の中に身を置くと、「その他大勢の中のひとり」になれた気がして安心するのだ。最近、マスク人口が大幅に増えてきたのも、男にとっては嬉しい変化だった。

 と、上着の左内ポケットに入れていた携帯電話が振動した。LINEだった。

 『先生から伝言。ミーティングを明日の朝9時に前倒し』

 (チッ)と小さく舌打ちをしてから、

 『了解』

 と返信して携帯をまたしまう。その時、斜め向かいに立っているサラリーマン風の男が、窮屈そうにタブロイド判の新聞を折りたたみながら読んでいるのが目に入った。正確には、そのタブロイド判の見出しのひとつが目に入った。

 「名古屋の小学生殺害事件。やはり、変質者の犯行か?」

 (チッ)

 男はもう一度、小さく舌打ちをする。

 (どうしてこんなことになってしまったんだ……)

 次に停車した駅で、男は電車から降りた。ホームから改札へ。エスカレーターで地上に出る。そして、目の前の大通りを左へ。その間、ずっと同じことを考え続ける。

 (どうして、こんなことになってしまったんだ……なぜあの子は、あんなに簡単に死んでしまったんだ……)

 力加減は、いつもと変わらなかったはずだ。頸動脈を圧迫し、気を失わせる。それ以上でも以下でもない。今まで、一度も失敗しなかった。それなのに……。

 男は、歩きながら、右手の薬指の爪で、自分の左手甲の親指付け根をカリカリと掻いた。爪が当たる先には、5センチ大の円形のケロイド。精神的に不安定になると、それを掻きむしるのがこの男の癖だった。

 (とにかく落ち着け)

 男は自分自身に言い聞かせる。

 (ここでやめれば良いだけだ。証拠は何も残していない。今、やめれば、それで「やり逃げ」であり「勝ち逃げ」だ。そうだろう?)

 マスコミの報道のせいで、世間は警戒を始めた。小学校も、小学生の女児を持つ親たちも、神経質になった。警察が市中をパトロールする頻度も、心なしか増えた気がする。危険だ。これ以上は危険。だから、やめる。それが正解だ。何度か楽しい思いが出来た。それで十分だ。やめよう。やめる。やめるぞ。おれは、もう、やめる。

 と、その時だった。

 男の目は、前方の路地から現れた、とある少女に吸い寄せられた。

 小学生。5年生か、6年生くらい。

 ショートパンツからスラリと伸びた細く長い足。ポニーテールからこぼれ落ちた後れ毛が、細くて白いうなじの上でさらさらと揺れている。顔が見たい。これで顔が可愛かったらどうしよう。そんなことを思いながら、男はその子の後ろを距離を取りながら付いていく。交差点。信号。女の子は、横断歩道の前で立ち止まる。大通りの向こう側に渡るつもりらしい。なので、ようやく彼女の横顔が見えた。

 (ワオ)

 小さく尖った鼻。くるくると動く大きな瞳。可憐な唇。パーフェクトじゃないか。男は憤慨した。なんでこんな子に、今、出会ってしまうんだ。この子もこの子だ。習い事の帰りなのだろうが、こんな時間に、ひとりでこんな繁華街を歩きやがって。ある種の人間にとって、自分がどれだけ魅力的かということを、この子は全然わかっていない!

 歩行者用信号が青になる。

 女の子が渡る。

 男は、そちらの方向には何の用事も無い。今から自分は、明日の「先生」とのミーティングの予習をしなければならない。それに、こういうことはもうやめると決心したばかりではないか。男は、逡巡した。そして、こう考えてみた。

 (あと5分だけ、この子を後ろから眺めて、それで終わりにするのはどうだろう。眺めるだけ。それ以上のことはしない。5分眺めたら、自分の仕事に戻る。うん。そうしよう。5分。5分だけだ)

 男は、同じ歩行者用信号を渡ることにした。ただ彼は、ひとつ、大きく間違えていた。残念なことに、彼は、自分が思っているほど、意思の力は強くなかった。

 その尾行は、5分では終わらなかった。