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第3回
「刑事登場」
刑事、緒賀冬巳。35歳。元々は、東京の警視庁の警部補だが、先日、人事交流の一環で愛知県警に出向となった。そして、異動と同時に、今、愛知県警を揺るがせている『名古屋市中区小4少女殺人事件』の捜査本部に合流するよう命令を受けた。
事件について、簡単に解説をしよう。
実は、愛知県内では、二ヶ月ほど前から女子小学生が首を絞められ、失神させられ、口に粘着テープを貼られて連れ去られ、公共の公園の遊具の上に置き去りにされるという事件が何度か起きていた。ただ、被害者に外傷が無かったことや、その家族が被害届の提出に積極的で無かったこと、それぞれの事件が複数の所轄署にまたがり横の連携が上手く機能しなかったことなどが原因で、捜査の動きは鈍かった。
それが悲劇を招いた。
犯人の手順がその時何か違ったのか。それとも、被害者の山浦瑠香ちゃんが、他の女の子より少しだけショックに弱かったのか。彼女の場合は、失神では終わらなかった。死んでしまったのだ。死因は、吐瀉物が気道を閉塞したことによる窒息死。その後、犯人は瑠香ちゃんの遺体を、名古屋市中区の千早公園の遊具の上に遺棄した。
山浦瑠香ちゃん殺人事件がニュースとして流れた直後から、SNSでは、
「私の知り合いの家族にも似たような事件の被害者がいる」
「私の近所でも同じような事件があった。その子は幸い、失神してただけだけど」
という書き込みで相次いだ。そして、それは、「愛知県警、今まで何やってたの? バカなの?」「県警がちゃんと捜査してれば、その女の子も殺されずに済んだはずなのに!」「警察、無能すぎる!」「責任を取れ!」「役立たず!」「税金泥棒!」などの罵詈雑言へとすぐに発展した。それを週刊誌たちが後追いして更に煽る。緒賀冬巳がこの事件の捜査本部に合流したのは、そういうタイミングであった。
(まずは捜査資料を読み込んで、現状を正確に把握しなければ)
そう緒賀は考えた。異動初日から残業を決め、捜査資料を何度も精読する。やがて、疲労で脳が痺れてきたので、30分だけ休憩して夜食を食べることにした。署を出てすぐの大通りでタクシーを捕まえ、
「ここから手近な繁華街ってどこ?」
と尋ねる。
「そりゃ、まあ、栄ですねえ」
タクシーの運転手は答えた。
「じゃあその栄で、名古屋っぽいもの食べられる店に連れてってよ。あんかけスパゲッティとか!」
「あんかけスパ! 栄で自分が好きなのは『そーれ』って店ですけど、この時間だとラスト・オーダー終わってますねえ」
「食べられれば、どこでも良いよ」
それで、緒賀は、この日、コメダ栄四丁目店にいたのである。ちなみに、目当てのあんかけスパゲッティは食べられなかった。緒賀の前に人生初のあんかけスパゲッティが置かれ、フォークを手にいざ一口目を食べようとしたその瞬間、店内で、広中大夏が若い女性と揉め始めたからである。
女性が店の外に出て行き、それを大夏が怒声を上げながら追いかける。警察官として見逃せる状況では無かった。ため息をついてフォークを置き、緒賀も店の外に出る。
案の定、男が女に手を伸ばす。力づくで何かをしようとしているように見えた。
「おい」
と背後から声をかけつつ、その男を女性から引き剥がす。
「放せ!」
男は喚きながら、緒賀の方に向き直る。
エルボーで、こちらの顔面を強打しようとしているようにも見えた。誤解だったかもしれない。が、それを判別するよりも先に緒賀の体は反応し、広中大夏のみぞおちに、強烈な当身を入れてしまっていた。
(しまった……)
ほんの少しだけ緒賀は後悔する。実は緒賀は、東京西部にあるとある空手道場の一人息子で、5歳の誕生日プレゼントが空手の道着で、以来、親から強制的に空手の訓練をさせられてきた人間だった。自分の両手両足は凶器。そう自覚していた。発動はなるべくさせたくないのだが、今のように害意のようなものを向けられると、考える前に体が動いてしまう。
(困ったものだ……)
しかし、やってしまったことは仕方がない。緒賀は携帯を取り出し、登録したての中署の捜査本部に連絡を入れた。
「お疲れ様です。捜査一係の緒賀です。実は女子大小路というところでひとり、暴行の現行犯を捕まえてしまいまして。所轄に連絡してパトカーを一台回してもらえませんか?」
☆
広中大夏は制服警官たちに連行され、所轄の取調室にぶち込まれた。
「名前は?」
「あの! 俺は何も悪いことはして……」
警官はすぐに大夏の言葉を遮った。
「聞かれたことにだけ答えて」
「!」
「名前は?」
「広中大夏です。でも俺、本当に何も悪いことはしてなくて、ただ麻実子と……」
「おい! 素直に取り調べに応じないとこのまま牢屋にぶち込むぞ!」
「え……」
「名前は? な・ま・え」
「……広中大夏です」
「次、年齢。それから住所。電話番号。あと、なんで女の子殴ろうとしたりするの?」
「殴ってません」
「殴ろうとしたでしょう? こっちはちゃんと報告受けてるんだからね」
「本当に殴ろうとかしてません。っていうか今日のはぼくが被害者です。喫茶店では水をかけられて外では知らない男の人にお腹を……」
「なるほど。水をかけられたから殴ろうとしたんだ」
「違います」
「そもそも、水をかけられるようなことをしたんだろう? ストーカーだっけ? 恥ずかしくないの? 男として」
「ぼくはストーカーじゃありません」
「うん。ストーカーはみんなそう言うんだ。で、怒って殴る。最低だな」
「だから、殴ってません!」
「……君さあ、今回は暴力行為は未遂だし、被害者の女性も名乗り出てないし、だから厳重注意で済ませてあげようかとこっちは思ってるんだ。でも、君が素直に反省しないなら、傷害罪で本当に書類送検することになるよ? いいの?」
「!」
ここに書くのはこのくらいにしておこう。実際は、こうした会話が2時間ほど続いた。その間、大夏は何度もチラチラと取調室の中を観察した。この取り調べの様子がちゃんとビデオ録画されているのか確認したかったのだ。が、それらしき機材を大夏は何も見つけられなかった。取り調べの最後に、身元引き受け人は誰かという質問になった。大夏がまだ独身で、家族は母と姉で、ふたりとも岐阜に住んでいると話すと、警官は鼻を鳴らして、
「女殴るような男が結婚出来るわけないものな。お母さんもお姉さんも、ご近所でさぞかし肩身が狭いだろうね」
と言った。大夏にはもう言い返す気力は無くなっていた。
「じゃ、その岐阜の実家の電話番号は?」
「あの……母は認知症が始まっているので、電話で会話とか、身元引き受け人とか、ちょっと難しいと思います」
「あ、そう。でも、その家にはお姉さんもいるんでしょ?」
「姉はこの時間は仕事中なんで、家にいないと思います」
「は? 今、夜の11時だよ?」
「それに、姉は俺のこと大嫌いなんで、身元引き受け人にはなってくれないかと」
「そうなの? なんで?」
大夏は姉の美桜のことを思い浮かべた。顔は美しい。大きな瞳。高く、すっと通った端正な鼻筋。程良くぽってりとセクシーな唇。白くきめ細かい肌。ほっそりと長いうなじ。それらがバランス良く配置されていて、もし美桜が芸能人になっていたなら、「世界の美しい顔100人」にきっと入っていただろう。それに反して、性格はとてもイビツだ。頑固と短気のハイブリッド・ツイン・エンジンを搭載し、些細なことで、激怒のレッド・ゾーンにアクセルが踏み込まれる。中学高校時代、美桜に卑猥な冗談を言った男どもの鼻骨を三回も折った。凝り性で、興味のあることにはとことんのめり込むが、一度切り捨てたものにはもう見向きもしない。今、美桜が夢中なのはアンチ・エイジングであり、それに繋がる水素の研究であり、逆に、切り捨てたものの代表格が、弟である大夏だ。
「クソ男。次に私の前に顔を見せたらその鼻折るからな」
これが、美桜とした最後の会話だった。
「とにかく、お姉さんの連絡先を教えなさい」
警官が苛立った声で言った。大夏は疲れていたし、美桜との関係を理解してもらうことも無理だと思ったので、
「じゃあ、姉の勤めてるお店に電話してみてください」
と言った。
「店?」
「はい。岐阜の柳ヶ瀬にある『グレイス』っていうクラブです」