女子大小路の名探偵

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第2回

「『最初』の逮捕」

 ときを、少しだけ巻き戻す。まず登場するのは「麻実子」という女性である。

 栄の真ん中で殺人犯から首筋に注射針を突き立てられた日の一ヶ月前。大夏だいきは、自分は麻実子という女性の彼氏だと思っていた。麻実子とは数ヶ月前に大夏が働く女子大小路のバーで出会い、そのまま彼女は大夏のマンションに泊まり、そういう関係になり、以来、定期的に店に来ては大夏のマンションにも来るようになった。ところが、特にきっかけもないまま、突然、麻実子からLINEの返信が来なくなった。既読スルー。既読スルー。既読スルー。やがて、その既読も付かなくなった。常識的に考えれば「嫌われた」あるいは「飽きられた」なのだが、大夏は自分自身のことに関してはあまり客観的な思考が出来ないタイプだったので、

 「彼女の身に何か事故かトラブルでも起きたのだろうか?」

 と考えた。そして、

 「最近、どうしたの? 俺に心配かけないようにしてくれてるのかもしれないけど、俺は彼氏として麻実子の力になりたいんだ。だから何でも相談して! 仕事終わりで麻実子の家に行くから、その時ゆっくり話そう! 待っててね!」

 というLINEを送った。すると、久しぶりに麻実子から返事が来た。

 「栄四丁目のコメダで会いましょう」

 麻実子のLINEにしては文章が敬語なのが妙だったが、大夏はそのことをあまり深くは考えなかった。久しぶりのデートだ! くらいにしか考えなかった。

 約束の当日。いつものように19時ちょうどに店を開ける。店の名は「タペンス」。女子大小路の中心にある池田公園から徒歩30秒の四階建てペンシル雑居ビルの最上階にあるバーである。ちなみに、エレベーターは無い。ので、滅多なことで客も来ない。大夏は、その閑古鳥が鳴きまくるバーで働く店長であり唯一の従業員である。ちなみに、採用時に、店のオーナーである高崎順三郎からひとつだけ約束させられた。

 「開店して最初に流す音楽は、必ず、ジャクリーヌ・デュプレのチェロ協奏曲にして欲しい」

 理由は聞かなかった。たぶん、オーナーが、そのジャクリーヌなんとかのファンだというだけだろう。反抗する理由もまったくないので、以来、大夏は律儀にそのチェロ協奏曲を流し続けている。

 開店してから2時間20分。客はまだ、ひとりも来ていない。「タペンス」はそもそも一軒目に来る店ではない。どこかで食事をし、二軒目で更に飲み、それでも飲み足りず、あるいは逆にそこでフラれたとか喧嘩をしたとかなどのストレスがあり、それで今夜はもう一軒どこかで飲みたいこのまま家に帰りたくない、という流れになって、初めてその行先の候補となるような店である。なので、客が来るとしても、それはたいてい23時を回ってからである。待ち合わせ場所であるコメダ栄四丁目店までは、徒歩で5分、走って2分の距離。待ち合わせ時間は21時半。そろそろちょうど良い時刻だ。大夏は、ジーンズの尻のポケットにスマホと財布を突っ込み、店の扉に『ちょっと外出しています。冷蔵庫のビールでも勝手に飲んでいてください』と書いた紙をテープで貼り付けた。そして、経年劣化でヒビと変色だらけのコンクリートの階段を、足取り軽やかに駆け下りた。

 ビルを出てまず右に。池田公園の角を今度は左に。途中、メリッサとレイチェルというフィリピン・パブ勤務の可愛い子たちに声をかけられたが、今夜はスルー。まっすぐ約束の店に入る。そして、万が一にもすれ違わないように、扉の目の前の四人がけボックス席に座った。そう言えば、麻実子が初めて大夏の部屋に泊まった翌朝、二人でここに来てモーニングを食べたことを思い出した。

 (そうか! だから、この店で待ち合わせだったのか!)

 (これはたぶん、今夜がふたりの再出発よ、という麻美子からのメッセージだ)

 (最近連絡がなかったのは、きっと何かのトラブルに巻き込まれていたんだ。それが解決したから、麻実子は連絡をくれたんだ)

 (わかった! トラブルというのはたぶん、元カレだろう。麻美子のやつ、俺と付き合い始めた時、まだ前の男ともちゃんと切れていなかったんだろう。でも、俺のことが本気で好きになっちゃったもんだから、それで前の男ときちんと別れようとして、それでその別れ話がもつれたんだろう。その男が「絶対別れない」とか言って暴れたり、つきまとったりして、ストーカー化して、でもでもでも、麻実子のやつ、それを俺に言うと俺から嫌われちゃうんじゃないかと思って、ひとりで解決しようと頑張ったんだろうな。だからずっと連絡が来なかったんだ。バカだな、あいつ。元カレのひとりやふたりでガタガタ言うほど、俺、小さな男じゃないのに)

 そんなことを立て続けに考えた。とにかく、今夜会いたいと麻実子が言ってきたということは、もうトラブルは解決しているということだ。俺はただ、

 「俺を選んでくれてありがとう」

 と言って、優しく抱きしめてあげれば良いのだ。1.5倍サイズの「たっぷりアイスミルクコーヒー」を注文しながら、大夏の顔は自然とにやけた。

 

 結果を先に言うと、大夏の「推理」はひとつも当たっていなかった。そもそも、麻実子はその夜、待ち合わせ場所に現れなかった。その代わり、麻実子とほぼ同年代の別の女性が、妄想に耽ってひとりニヤけている大夏の目の前に立った。

 「君が、広中大夏って人?」

 「え?」

 リクルート・スーツかと思うような、グレーの地味なパンツ・スーツ。漆黒の髪を後ろで一つに束ね、ストラップの細いトートバックを肩から下げている。小顔で、しかもそれぞれのパーツのバランスが素晴らしく、地味なのによく見ると可愛いという、大夏の好みにどストライクな容姿だった。彼女は両手をトンッと大夏の前のテーブルに乗せ、もう一度同じ質問をした。

 「広中大夏なの? それとも違うの?」

 「や……確かに、俺は広中大夏だけど」

 初対面の、おそらくは歳下であろう女子になぜ呼び捨てにされているのだろうと思いつつ、大夏は答えた。

 「そう。じゃあ、時間がもったいないから単刀直入に言わせて貰うけど……いい歳してストーカーとかやってんじゃねえよ」

 「え?」

 「これ以上麻実子に付き纏うなら、こっちにも考えがあるから。警察にも相談するし、君の職場にも怒鳴り込んでオーナーに直接クレーム入れるから」

 「ちょ、ちょっと待てよ」

 「何よ」

 「何か勘違いしてるみたいだけど、ストーカーは別の男だよ。麻実子は俺に惚れててそれでたぶん、その別のストーカーの男と今揉めてるんだ。だから俺は今日、麻実子とちゃんと話して、彼女を安心させ……ぶはっ!」

 大夏は言いたいことを最後まで言えなかった。なぜかというと、目の前の地味カワ女性が、テーブルにあったグラスの水を大夏の顔面にかけたからだ。そして、

 「警告はしたからね」

  と言うと、そのまま店から出ていった。

 唖然としている大夏。気がつくと、店じゅうの視線が彼に集まっていた。その恥ずかしさのせいもあって、

 「待てよ、おい!」

 と、ふだん出さないような大声とともに、大夏はその女を追いかけた。通りの10メートルほど先に、目指す相手がいた。走る。大夏が怒鳴ったせいで、相手の顔に少し恐怖の表情が浮かぶ。とにかく捕まえなければ。掴む。右の肩を。そして左の腕を。悲鳴。相手の女性が、つんざくような悲鳴を上げる。待ってくれ。悲鳴をあげたいのは俺だ。誤解されているのは俺だ。公衆の面前で水をかけられ恥をかかされたのは俺だぞ! 大夏は激しく彼女の体を揺さぶった。聞け! 俺の話を聞いてくれ!

 「おい」

 背後から、野太い男の声がした。そして、次の瞬間、信じられないような力強さで大夏は女性から引き剥がされた。

 「放せ!」

 そう男に言おうとしたのと、男から鳩尾みぞおちに強烈なパンチを喰らったのがほぼ同時だった。なので実際に口から出たのは、

 「はぐぉぅぅ」

 という意味不明の擬音だけだった。

 「おまえのせいで、俺の初めてのあんかけスパゲッティが台無しだぞ」

 男が忌々しそうに言う。その間に、大夏に水をかけた女性は走り去っていく。

 (おまえ、誰だ?)

 大夏はそう聞きたかったが、パンチの衝撃で呼吸が半分止まっており、

 「ぐぉ……がはぁ……」

 みたいな音しか出なかった。男は携帯を取り出すと、電話をかけ始めた。

 「お疲れ様です。捜査一係の緒賀です。実は女子大小路でひとり、暴行の現行犯を捕まえてしまいまして。パトカーを一台回してもらえませんか?」

  なんと、男は刑事だった。そして、これが、大夏にとって、「最初」の逮捕の瞬間だった。ちなみに、わざわざ「最初」と鍵カッコで括ったのは、そのすぐ後に「二度目」がやってくるからである……。