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第8回
「隠蔽と改竄」
加納秋穂は職場である児童相談所に着くと、すぐに自分専用のノート端末からデータベースにアクセスをした。案件ナンバーを入力し、「佐野あすか」のフォルダを表示する。
「あれ?」
面接記録を読み始めてすぐ、秋穂の手は止まった。
(これ、私が書いた文章じゃない。誰かが、後から書き換えてる……)
佐野あすか。近隣住民からの、匿名による二度の通報。父親による虐待行為の疑い。一度目は一年前。二度目は二ヶ月半ほど前。その父親は、地元の有力者である県会議員の筆頭秘書で、直属の上司はこの調査にとても後ろ向きだった。それで、いつか何かが起きた時のために、「虐待が行われている可能性は否定できない」という自分の意見とその根拠について、秋穂は詳細なコメントを付記しておいたのだ。
今、記録を開くと、そのコメント部分がごっそり削除されていた。代わりに、 「虐待の事実は確認されなかった。通報者の単なる勘違いか、あるいは父親の社会的地位を貶めようという悪質な行為か」
と書かれていた。
(誰がこんなことを……)
と、秋穂の肩に男の手が置かれた。
「加納くん。そうやって背中を丸めてパソコンを見る癖、やめた方が良いよ。身体に無理な力がかかって、疲れが溜まりやすくなるからね」
慌てて画面を消し、体を起こす。触れてきたのは、課長の神保永昌だった。一年前と二ヶ月半前と、二度も佐野あすかへの調査継続を却下した上司である。
「仕事熱心なのは良いことだけれど、あまり前のめりになっちゃいけないよ。前のめりになると、視野が狭くなるからね。あ、おはようがまだだったね。おはようございます。さ、今日も頑張りましょう」
そう猫を撫でるような声で言うと、神保は自分のデスクの方に行こうとした。
「課長」
その背中に、秋穂は声をかけた。
「データベースに保存した文章が勝手に書き換わるって、有り得ますか?」
神保は微かに眉をしかめた。
「突然、どうしたの?」
「佐野あすかちゃん、憶えていますか?」
「誰だっけ? 毎日、大勢の名前を聞くから、なかなか覚えきれないよ」
「父親からのDV疑惑の通報があり、私が担当した女の子です。お父様が、県会議員の浮田一臣先生の筆頭秘書で」
「あー。思い出したよ。でもそれ、ずいぶん前の話じゃなかったっけ?」
「課長。今はもう、前の話なんて言っていられる状況ではなくなりました」
「ごめん。話がよく見えないんだけど、また通報が来たの?」
神保の声に、微かな苛立ちが混じり始めた。秋穂は、じっと神保の目を見つめると、一言一言を噛みしめるように言った。
「佐野あすかちゃんは、昨夜、何者かに殺害されました」
「え?」
「今朝のニュースで、もう、あすかちゃんの名前は報道されています。今回の事件が、父親のDV疑惑と関係あるかはわかりませんが、念のため、警察に情報は提供すべきですよね?」
「け、警察?」
神保は、とてもわかりやすく動揺した。目が泳ぎ、口を金魚のようにパクパクとさせた。そして、
「はい。今から電話をしてみます」
と、秋穂がデスクの受話器を持ち上げると、慌てて駆け戻ってきて、その電話を強引に切った。
「警察への連絡なら、同じ公務員として、しかるべきルートをきちんと通したほうが良いだろう」
そう神保は秋穂に言った。
「しかるべきルート、というのは何ですか?」
「それは、私が上と相談して判断するから、君は心配しなくて良いよ。うん。この件は私がこのまま預かりましょう。君は今もたくさん訪問案件を抱えているんだから、そっちに集中してください。うん」
そう強引に話をまとめると、神保はあたふたとオフィスの外に出て行った。神保がいなくなると、朝のバスで事件を教えてくれた菅原絵里がそばに来た。
「加納さん、大丈夫?」
「何がですか?」
「何がって、なんか揉めてるような雰囲気だったから」
「何にも揉めてないですよ。でも、心配してくださってありがとうございます」
秋穂は、そう言いながら、もう一度、自分の端末の画面を復帰させた。そして、
「虐待の事実は確認されなかった」
という文章より更に上に、
「下記の文章が知らないうちに書き込まれていましたが、これは私が書いた文章ではありません。元の文章を改めてアップロードいたします。加納秋穂」
と書き込んだ。
それから一時間ほど、秋穂は通常の業務をした。神保は30分ほどで自分のデスクに戻ってきた。秋穂はじっと彼の様子を観察していたが、彼は一度も秋穂と目を合わせなかった。午前10時から、秋穂は外回りに出かけた。移動中はずっと、死んだ佐野あすかのことを考えていた。
佐野あすかは、色白で顔だちの綺麗な少女だった。ただ、一度目の面会の間、終始無表情で感情というものがまったく外に出てこなかった。彼女は秋穂の質問に対して、「別に」と「何も」の二言しか返さなかった。対照的に、父親の佐野享吾は、営業スマイルが顔に貼り付いているような男だった。口角を意識していつも上げていたが、目は笑っていないように思えた。
二度目の通報の時、秋穂はあすかの変身ぶりにとても驚いた。たった九ヶ月の間にグッと背が伸び、胸も膨らんでいた。しかも、その膨らみを強調するような胸元の開いたTシャツを着て、上手な化粧まで覚えていた。「16歳です」と言われても、普通に信じてしまいそうな変身ぶりだった。
「私を信じて、本当のことを話して欲しいの」
そう切り出した秋穂に、佐野あすかは、
「あんたみたいな女の人、私、嫌いなんだよ。おばさん」
と言い捨てた。その時のことを思い出すと、秋穂の胸は今も鈍く痛む。
午前中に三件の家庭訪問をし、それからとある馴染みの定食屋に向かった。秋穂は週の半分はそこでランチを食べているのだ。と、店に入る直前に携帯が鳴った。
(神保か。それとも警察か……)
そんなことを考えながら、バッグから携帯を取り出す。が、発信者はどちらでもなかった。
「秋穂? 元気? この間は変なことお願いしちゃってごめんね」
大夏の元カノとなった麻実子の能天気な声が耳に突き刺さった。
「元気。今、仕事中なんだけど、急ぎ?」
貴重な昼休みを麻実子の長話で潰されたくなかったので、秋穂はわざと「仕事中」と言ってみた。
「それが超急ぎなの。秋穂、来週の日曜日、空いてない?」
「なんで?」
「実は……結婚することになってさ」
「はい?」
「で、式が来週の日曜日でさ」
「は、はい?」
「ほら。こんなご時世だし、あんまり大人数で式っていうのもどうかって彼が言い出して、でも彼は彼で義理のある相手が多いから招待客はこっち優先させてねとか勝手なこと言ってきて、それで私、あんまり自分の友達に声かけられなかったんだけど、なんか彼の職場で体調不良の人が出てーみたいな話になって急にまたおまえの友達呼んでいいよみたいな勝手なこと言ってきて、まあ、だいたい彼はいつも勝手なんだけど、ほら、自分のことエリートとか思っちゃってるから」
早口にまくし立てる麻実子を、秋穂は懸命に遮った。
「ちょ、ちょっと待って。麻実子、誰と結婚するの?」
「え?」
「つい最近まで、広中大夏って人と付き合ってたんだよね? 彼と結婚するの?」
「まさか。どう考えてもそれはないでしょ。あいつ、単なるフリーターだよ?」
「でも……」
「秋穂。そんな話、式の時には絶対しないでよね。彼、けっこう嫉妬深いタイプなんだから」
「……」
「そんなことより、お願い。式、来てくれない? 披露宴のテーブルに空席があるとか有り得ないでしょ? ね? 私を助けると思って」
「……」
そんなことよりって……あんたの言葉を真に受けて、私はその彼に喫茶店で水をぶっかけたんだよ? そして私のせいで、その後も彼はいろいろとひどい目に遭ってるんだよ? 秋穂は、改めて、昨夜の大夏とのあれこれを思い返した。ふたりで歩いた夜の繁華街。暴走してきた車。公園に戻ったらすでに大夏の姿は見えなくなっていた。彼は今、どうしているだろう。
実はその時、広中大夏は、秋穂の想像より更にひどい状況に陥っていた。