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第9回
「疑わしい偶然」
一晩中続いた取り調べ。迎えに来てくれた姉の美桜からの厳しい説教。広中大夏がやっと帰宅して自分の部屋のベッドに倒れ込んだ時、時刻は朝の九時半になっていた。押し寄せる疲労。とにかく今は寝よう。そう思ったのも束の間、大夏がノンレム睡眠に入りかけた時、枕元に放り投げていた携帯電話がけたたましく鳴り始めた。
「もしもし、広中大夏くん?」
「そうれすけど、どちら様れすか?」
「自分、愛知県警の鶴松っていう者です。急で恐縮なんですが、今から中署まで来てもらってもいいですか?」
「へ? 中署? 俺、さっきまれそこれ散々話聞かれてましたけど?」
強烈な眠気で回らない呂律に苦しみつつ、大夏は必死に抗議した。
「そうなんだけどね。昨日のは所轄の刑事さんなんですよ。で、ぼくらは県警からこの捜査本部に来た人間なんでちょっとラインが違うんだよね。なので、ぼくらはぼくらで君と直接話したいなって」
「でも、俺さっきまで徹夜でずっと……」
「あれ? もしかして君、名古屋から出ちゃったとか?」
「いや、ちゃんとアパートに帰って来てますよ!」
「逃亡とか考えてたりして?」
「まさか!」
「だったら来られるよね? 来られないってなると、逃亡の恐れありって上に報告しなくちゃならなくなるけど」
結局、睡眠時間15分で、大夏は中署に戻ることになった。昨夜と同じ取調室に、ふたりの刑事が待っていた。
「え……マジで?」
鶴松の隣りに見覚えのある男がいた。
「愛知県警の緒賀です。まさか、君とこんな形で再会するとは、ね」
大夏の脳裏に忌まわしい記憶が甦る。女子大小路のコメダで、秋穂に水をかけられた。彼女を追いかけて店を出た時、背後からこの男に声をかけられた。
「おい」
信じられないような力強さで腕を掴まれ、そして鳩尾に強烈なパンチ!
「はぐぉぅぅ」
あの衝撃。胃袋がひっくり返ったかと思った。と、鶴松が、
「緒賀さん、知り合いだったんですね」
と軽い口調で言った。
「彼、女の子にストーカーしててね」
と、緒賀が淡々と言う。
「してません!」
「してただろ?」
「してません! ストーカーとか、絶対してません!」
「ふうん。じゃあ、殺人は?」
「は?」
「ストーカーってたいていエスカレートするんだよね。で、悲しい事件が起きる」
鶴松は、まったく悲しそうではない口調でそんなことを言う。
「ストーカーも殺人もしてません!」
「まぁ、とにかく座ってよ。そこのところ、ゆっくり聞きたいから」
鶴松はそう言って、大夏に自分の正面の椅子を勧めた。緒賀は、ゆらりと部屋の隅に行った。彼は、立ったままだった。
「しかしあれだね。君、緒賀さんのパンチを受けてまだ無事に生きてるってすごいね。緒賀さんは東京でも指折りの空手道場のひとり息子で、そのパンチ力は、『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』で「キルン刑務所最凶の囚人」と呼ばれたドラックス・ザ・デストロイヤーより強いって言われてるんだよ?」
そう鶴松が言うと、緒賀はボソリと
「あの時は手加減したんで」
と言った。
「改めて聞きたいことって何ですか?」
大夏は、さっさとこの二回目の取り調べを終わらせたかったので、何とか話を前に進めようとした。
「あー、うん。じゃあ、広中くんも忙しそうだから、いきなり本題に入ろうかな」
「はい。ぜひ、そうしてください」
と、鶴松は、グイッとテーブルの上に身を乗り出し、大夏の目を覗き込んだ。
「ヤマモトって、誰?」
「山本……何さんですか?」
「それはこっちのセリフだよ。ヤマモ トって誰? 下の名前は何?」
「俺、山本って友達はいませんけど」
と、次の瞬間、緒賀が、腰をグッと落として、右の正拳突きを宙に放った……ような気がした。拳の軌跡はほぼ見えなかったが、ボッという音と、そしてその後にフワッと届いた風圧が、その突きの凄さを物語っているように大夏には思えた。
「広中くん。いきなりそうやって嘘をつかれると、ぼくたちもあんまり優しくはしていられなくなるよ?」
鶴松が言う。
「嘘なんてついてません。俺、山本なんて友達、いません」
「そ。なら、どうして君の携帯の連絡先にヤマモトって名前があるのかな?」
「え?」
「ちなみに、漢字じゃなくて、カタカナで『ヤマモト』ね。昨夜、持ち物検査をしたときに、所轄の刑事がチェックさせてもらったんだ」
と、緒賀がまたスッと腰を落とし、今度は左右連続で二発の正拳突きを宙に放った。よく見ると、両手とも人差し指と中指の付け根が茶色に変色している。
(あれって、殴りダコみたいなことだろうか。人を殴って殴って殴りまくってるうちに、あんな拳になったんだろうか……)
そんなことを想像して大夏は震えた。そして必死に考えた。
(ヤマモトヤマモトヤマモトヤマモトヤマモトヤマモトヤマモトヤマモトヤマモトヤマモトヤマモトヤマモト……あ!)
唐突に大夏は思い出した。
「ヤマモトさん! 思い出しました!お店のお客さんです!」
「店の客?」
「はい。何ヶ月かに一度、ふらっとお店にやってくるお客さんです。いつも良いお酒を飲んでくれて、金払いも良くて、酔いつぶれることも絡み酒でもなくて、控えめに言って最高に紳士です! あれ……そのヤマモトさんがどうかしたんですか?」
「君って、店のお客さんと電話番号の交換とかするの?」
「いえ。普通はしないんですけど……特に男のお客さんとは一度もしたことなかったんですけど、前に急に、『大夏くん、バイトしない?』て誘われたことがあって」
「バイト?」
「はい。今度仲間たちとバーベキューに行くんだけど若い男手が足りないから、バイト代弾むから手伝ってよって。それで番号交換したんです。日程決まったら連絡するからって。でも、結局、それから電話かかってこなくて……めっちゃ俺もバーベキューしたかったのに」
「ふうん。その話を俺たちにも信じろと」
「え? 本当ですって!」
「で、そのヤマモトさんの下の名前は?」
「や、知らないです」
「何の仕事してる人なの?」
「え、知らないです」
「どこに住んでるの?」
「全然知らないです」
「じゃあ、今、本人に電話して聞いてもらってもいい? 君の携帯に番号入ってるんだから、簡単でしょ?」
「……え、今、ここで、ですか?」
冗談かと思ったが、鶴松の目は笑っていなかった。緒賀からもヒリヒリするような殺気が感じられた。それで、大夏は素直に携帯を取り出し、連絡先にある「ヤマモト」に、初めて電話をかけた。かけるとすぐにコンピューター音声が返ってきた。
「この電話番号は、ただいま使われておりません」
それを聞いて電話を切り、
「番号変えちゃってるみたいです」
と刑事たちに言う。彼らはじっと、大夏を観察していた。
(この人たち、この電話が使われてないってとっくに知ってたんだな)
ようやく大夏は気がついた。
(知ってて、俺のリアクションを観察してたんだ……)
「あの、このヤマモトさんが、何か事件に関係あるんですか?」
と、鶴松は、冷ややかに笑い、
「広中くんは、偶然って、どのくらい信じる人?」
と、質問に質問を返してきた。
「刑事っていうのは因果な商売でね。偶然ってやつにぶつかるたびに、それを疑うのが習慣になっちゃうんだ」
「そうなんですか」
「さて、ここで問題です。君は、老松公園で女の子の死体を見つけた」
「はい」
「その女の子は自分の携帯を持っていた」
「へええ。最近は小学生も持ってますよね、携帯」
「その子の携帯にも『ヤマモト』っていう名前が登録されていた」
「え?」
「そして、発見した君の携帯にも、『ヤマモト』っていう名前が登録されていた。どちらもカタカナのヤマモトで、苗字だけの登録で、電話番号も一致していた」
そこまで言うと、鶴松は緒賀の方を振り返った。緒賀はゆっくり大夏の横に来ると、彼の前に自分の両手をそっとついた。そして、こう質問をした。
「なあ、ストーカー。おまえは、こいつを全部、ただの偶然だと言い張るつもりか?」