女子大小路の名探偵

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第11回

「教授、登場」

 広中大夏がヤマモトとの「トモダチ関係」を確認したのと同じ夜、姉の美桜は三年ぶりの徹夜ダメージを痛感していた。

 (頭痛もしてきたし、肌も心なしか荒れてる。20代の頃は三日寝なくたって平気だったのに)

 そう職場の更衣室でため息をつき、仕事終わりのジョギングは中止した。深夜のタマミヤの飲み屋街を早足で通過し、我が家である喫茶「甍」いらかに帰る。健康とは、良質の水、空気、そして睡眠の三本柱から成る。風呂上りに、あえて常温で保管している「高賀の森水」を薄張りのグラスに注ぎ、化粧水を顔に叩き込んでから、弁護士の望月から貰った「顔リラウォーマー」を貼った。足裏と脹脛ふくらはぎの両方に「足リラシート」も貼る。ちなみに水を常温で飲むのは、内臓を冷やさないためと、水本来の甘さを感じるためだ。飛騨の名工が作った一品ものの椅子にゆったりと腰をかけ、「ハイドロエッグ水素パウダー」の粉末を「高賀の森水」とともに飲む。「顔リラウォーマー」がじんわりと温かくなってきた。この時間が一日の中で一番好きだ。が、今夜はその幸せは長く続かなかった。母親の琴子が、ピンクのカーディガンにピンクのスカート、そしてピンクのハンドバッグを手に、美桜の部屋に入ってきたからだ。

 「あら、あなた。まだ着替えてないの?予約の時間に遅刻しちゃうわ!」

 「は?」

 「美容院よ! さあ、行きましょ!」

 そんな予約をした記憶はない。そもそも、深夜0時過ぎにやっている美容院などない。だが美桜は、琴子の言葉を頭ごなしに否定しないよう気をつけていた。

 「うん。行くよ。行くけど、その前にお母さんもこれ、試してみない?」

 「なあに?」

 「お店によく来るお客さんがくれたの。とっても気持ち良いわよ」

 そう言いながら、琴子をベッドに寝かせた。

 「はい。目を瞑って」

 と言って、自分の化粧水を彼女のおでこ、鼻筋、頬などに優しく塗る。そして、自分とお揃いの「顔リラウォーマー」を貼ってやった。

 「あら。これ、なんだかあったかいわ」

 「リラックスできるし、化粧水の吸収もグッと良くなるのよ。お肌がモチモチになっちゃうね、お母さん……お母さん?」

 なんと、目を瞑って5秒で琴子は寝ていた。気持ち良さそうに大の字に両手両脚を広げて。美桜は、琴子お気に入りのカーディガンをそっと脱がして布団をかけた。さて、自分はどうしようか。一緒に寝るにはちょっと窮屈そうだ。仕方がない。今夜は自分が琴子の部屋で寝よう。携帯と水だけ持って移動する。琴子の部屋の枕元には、岐阜のフリーマガジン『GiFUTO』が広げたままになっていて、『新装開店2割引』という美容院の広告のところに、赤ペンでマルがされていた。

 「なるほど。これのこと、か……」

 琴子は、認知症だ。

 夫にがんで先立たれ、長女の美桜も長男の大夏も家を出ていき、彼女はずっとひとりで喫茶「甍」を切り盛りしてきた。

 「私のことは心配要らないから、あんたたちは好きなように生きなさい」

 それが琴子の口癖だったのに、二年前、突然、辻褄の合わないことを言うようになった。俗に言う「まだらボケ」。一人暮らしは危険だと医者から言われ、それで美桜は実家に帰ってきたのだ。

 「美桜! なんでここに寝てるの?」

 いきなり琴子に大声で揺り起こされた。

 「へ?」

 いつの間にか朝になっていた。『GiFUTO』を手にしたまま寝落ちしたらしい。

 「お店まで送って頂戴。美容院!」

 琴子はまたピンクのカーディガンをきちんと着ていた。

 「ちょっと待ってね」

 美容院に電話をかけてみた。予想に反して、本当に予約が入っていた。

 「髪をね、ピンクにしようと思って」

 「え? 還暦直前でピンクの髪?」

 「だって、ピンクは桜の色よ? あなたの色じゃないの!」

 まあ、今更ご近所の目を気にしても仕方ないし、本人が楽しくて幸せならそれで良いかと思う。美桜は琴子を車に乗せて家を出た。「ダイハツのタント」。図らずも弁護士の望月とお揃いの車になってしまった。なぜダイハツかと言うと、夏芽という親友が自動車のメカニックになってダイハツに就職したからだ。彼女とは高校時代は「岐阜の最凶ツートップ」と言われ、「美桜の木刀・夏芽のスパナ」と言えば……まあ、それはまた別の話だ。美容院は東柳ケ瀬のど真ん中にあった。「グレイス」から5分の距離だが、いつもは夜しか来ないので、真昼の柳ケ瀬は新鮮だった。ブリーチとカラーで2時間半かかると言われ、その間、ウォーキングをすることにした。軽く上半身をストレッチして、アキレス腱も伸ばす。さて、どういうルートにしようか。いつもの十八楼か。金華山を徒歩で登るか。正法寺に行って岐阜の大仏様に琴子の健康でもお祈りするか。そんなことを思いながら歩き始めてすぐ、長良橋通りとの交差点で、見覚えのある顔を見つけた。

 「あ、畦地先生?」

 思わず大声が出た。かつて美桜が公開授業を受け、何度かメールのやり取りをし、最後に食事に誘ったがそれはあっさり断られた、岐阜大学教授の畦地弦一郎だった。

 美桜の声に畦地が振り返る。目が合う。

まるで北川悦吏子の書くドラマのワンシーンだ。『半分青い』はまだ観ていないけれど、全話録画はしてある。

 「お、お久しぶりです、畦地先生!」

 店では見せない全力の笑顔で挨拶。

 「ごめんなさい。どなたでしたっけ?」

 「え? 広中美桜です。岐阜大学で、先生の水素と水素水についての公開授業を受けて、それで、何度か質問メールを……」

 「ああ。そうでしたか。公開授業。なるほど。受けてくださってありがとう」

 美桜のことはどうやら忘れているらしい。少しショックだが、まあ仕方がない。

 「先生は、どうしてここに?」

 平日の昼間なら大学の授業があるだろうにと思って、美桜は気を取り直して質問をした。

 「実は、すぐそこにネットラジオの放送局がありましてね。水素と健康についての番組をやるからゲストで出てくれって言われて来たんですけど、機材トラブルが起きてしまって。それで、小一時間、ランチでもして来てくださいって話になりまして」

 畦地の言葉に、美桜は思わず心の中でガッツ・ポーズをした。

 「私、柳ケ瀬は超地元なんです。もしよければ、ランチ、ご案内させてください」

 「え?」

 「私もちょうど空腹で。和洋中エスニック何でも言ってください。柳ケ瀬代表として、私、ご馳走します」

 「え? ご馳走は困ります」

 「え? なんで困るんですか?」

 「だって、あなたにご馳走される理由がないでしょう」

 「あ。じゃあじゃあじゃあ、私の相談に乗ってください」

 「は?」

 「で、そのお礼に、ランチ、ご馳走させてください」

 「私に、何の相談ですか?」

 「あ……」

 そこまで会話が進んでから、美桜は迷った。水素関係で質問したいことは、すでにメールで質問して丁寧な回答を貰っていた。でも、ここで引き下がっては、もう二度と畦地と食事のチャンスは無いだろう。何か相談しなければ。それも、会話が長引くような難しい悩みを相談しなければ。それで美桜は、彼女の中でもっともタイムリーな話題を切り出した。

 「実は、昨日、弟が逮捕されてしまって。殺人事件の容疑者として」

 「は?」

 言ってすぐに後悔をした。弟が殺人の容疑者だなんて、ドン引きに決まっている。

 「もちろん、警察の誤解なんですけどね。私の弟は、アッパラパーのエロい女の子は大好きですけどロリコンではないんで」

 フォローのつもりで言ったのだが、言ってみてから全くフォローになっていないと反省した。

 「昨日ってことは、名古屋で小学生の女の子が殺されたって事件ですか?」

 「そうです。その事件です。畦地先生も、ニュースご覧になられたんですか?」

 「新聞に大きく載ってましたからね。ああ、あの事件ですか……」

 そう言いながら、畦地は、何かを思案するような表情を見せた。

 「あれは、ずいぶんと妙な事件ですよね」

 「本当ですよね。小学生の女の子狙うとか、気持ち悪くて吐き気がしますよね」

 そう美桜が返すと、畦地は指を立てて小さくそれを左右に振った。まるで昔のイギリスの名探偵のように。

 「私が妙と言ったのはそういうことじゃないんです」

 「え? じゃあ、どういうことですか?」

 「あの事件、マスコミは『変質者による通り魔的犯行か?』って書いているでしょう? あれ、間違ってますよ」

 「え?」

 それから畦地は、とても重大なことなのに、当たり前過ぎてツマラナイ、という雰囲気でこう言った。

 「昨日の事件、あれは計画殺人ですよ」