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第7回
「殺したのは誰?」
二日で二度の逮捕。しかも二度目は殺人事件の容疑者として。広中大夏が[無断で名古屋市の外には出ない]という条件でいったん釈放された時には、時刻は朝の七時になっていた。
取調室から外の廊下に出ると、姉の美桜が腕組みをして立っていた。
「姉ちゃん……」
美桜は、不機嫌そうに鼻をひとつ鳴らしただけ。その代わり、美桜の横の、ネコバスを更にメタボにしたような大男が、笑顔で手を振りながらこう言った。
「フツーはあと三日はここに閉じ込められて、刑事にある事ない事言わされて、いつの間にか調書にサインさせられて殺人犯にされちゃうんだよ? でも君はラッキーボーイ。君には、名古屋市中村区で一番優秀な弁護士であるモッチー弁護士が付いてるんだからね。さ、帰ろうか」
「……誰?」
「だから、モッチー。弁護士♡」
大夏は、ネコバス男に背中を押されるようにして警察署を出た。外は、うららかな春の朝だった。ネコバスは、美桜のために助手席のドアをまず開け、
「美桜ちゃんのお家まで送るよ」
と言ったが、美桜は首を横に振り、
「ちょっとこのバカとふたりで話しがしたいんで、どこかこの時間でもやってる店、教えてもらっても良いですか?」
と返事をした。
「あー。それなら、いつか美桜ちゃんとふたりでモーニング・コーヒーを飲みたいと思ってたところがあるよ。カフェじゃなくて、ホテルの中のフレンチレストランなんだけど。うふ」
最後の「うふ」が激しく気持ち悪かったが大夏は黙っていた。殺人事件の容疑者として逮捕されたのに、条件付きとは言え一晩で外に出てこられたのは、やはり弁護士の力なのだろうと思ったからだ。それから大夏と美桜は、ネコバス弁護士の赤いダイハツ・タントに乗って、JR名古屋駅直結のホテルの最上階にある「ゲートハウス」というフレンチ・レストランに移動した。ネコバスは一緒にコーヒーを飲みたそうだったが、それは美桜がピシャリと断った。彼は、新商品というフェイス・マスクに、更に美桜の好きな足リラシートを1ダース添えたお土産の紙袋を置いて帰っていった。
窓際のテーブル。二年ぶりに、姉と弟が向かい合って座る。
「で?」
置かれた水を一口飲み、美桜が訊いた。
「や、俺にも何がなんだかよくわからないんだ。公園で待っててって言われてそしたら女の子が死んでて『わ。すぐに110番しなきゃ』って思った時にいきなり後ろから『おい、そこで何してる!』って言われて、振り返ったらなんとそいつが警官で……」
「で?」
「え?」
「で?」
大夏は、姉の美桜が「『で?』しか言えない特殊な病気」にかかってしまったのかと訝しみながら、もう一度同じ話をした。
「だから、俺にも何がなんだかよくわからないんだ。公園で待っててって言われて、そしたら女の子が死んでて『わ。すぐに110番しなきゃ』って思った時に……」
と、大夏の話をぶった切るように、美桜がテーブルをドンッと拳で叩いた。その音は、客のまばらな店内に大きく響き、早番の従業員たちが全員、振り返った。
「おい、クソボケ。おまえ、二年前に私に言った言葉、忘れたのか?」
「え?」
「あんたさ。二年前に母さんが認知症だってわかった時、『姉ちゃん。俺、認知症の介護なんて一人じゃ絶対無理。錦の部屋は引き払って岐阜に帰ってきてよ。頼むよ』って私に土下座しただろうが! で、『姉弟仲良く、介護は半分半分で頑張ろう』とか言いながら、一週間でテメエは家出して名古屋に逃げやがって……」
「あ、はい、覚えてます。それはもう、深い後悔とともに、しっかり覚えてます」
大夏は慌てて両手を振り回し、美桜の言葉を遮った。この話題が続くと、最後にはまた殴られ、鼻の骨を折られる気がした。
「私、あの時言ったよね? もう二度と、姉でもなければ弟でもない。次に私の前に顔を出したらぶち殺すって」
「そうなんですけど、警察が」
「甘えた声で電話すれば助けてもらえると思いやがって」
「そうじゃないんですけど、警察が」
「金◯蹴り上げてやろうか? それともその垂れた両眼を指でえぐってやろうか?」
「ちょっと待ってよ。俺だって連絡はしたくなかったんだけど警察が」
と、その時、大夏のスマホが「ピロリン」とLINEの着信を知らせてきた。大夏は美桜からの圧力をかわしたくて、
「こんな朝から誰だろう」
と、わざとらしくひとりごとを言いながらスマホをチェックした。
着信はLINEニュースだった。そのトップ・ニュースが、昨夜の事件だった。
「え……もう?」
と、美桜がテーブルの向こうから手を伸ばし、大夏のスマホを奪った。そして、険しい顔で、その記事を読んだ。
「小学生、またも殺される。犯人は、同一人物か?」
その記事には、被害者の女児の名前と写真が載っていた。名前は、佐野あすか。年齢は、まだ10歳だった。
同じ朝。加納秋穂は出勤のためにバスに乗り、昭和区の折戸町にある児童相談所へ向かっていた。虐待から子供たちを守る。それが秋穂の仕事だった。仕事熱心な秋穂は、いつもは出勤の時間はその日の調査先の予習に充てていた。が、今日はずっと、昨日の大夏とのことを思い返していた。
夜の老松公園。秋穂が一番美味しいケーキと信じている、ピエール・プレシュウズのガトージャポネ。その箱を手に公園に戻ると、パトカーが数台、赤色灯を回した状態で停まっていた。そして、「恐いね」「また、小学生の女の子だって」「可哀想に」などの野次馬たちのひそひそ声。あたりに大夏の姿はなく、彼とは連絡先をまだ交換していなかった。心の奥がザワザワした。
と、いきなり、背後から肩を叩かれた。振り返ると、同じ職場の菅原絵里だった。職歴は秋穂より二年先輩だが、彼女は短大卒なので、実は同い年だ。
「ねえ。今朝のニュース見た?」
絵里は、周囲の客を気にしながら小声でそう言うと、自分のスマホを秋穂の方に差し出してきた。画面は、ツイッターのトレンド・ニュース。
「え……この子!」
秋穂は右手で口を覆った。
「やっぱり、そうでしょ? この子、加納さんが担当してた子、だよね?」
秋穂は被害者の写真をじっと見た。
佐野あすか。一年前と、そして二ヶ月半前と、二度も「児童虐待が行われている」と匿名の通報があった。その現地調査を担当したのが、秋穂だった。
「あんたに話すことなんか無いから」
冷たい目であすかは言った。それが彼女と交わした最後の言葉だ。もっとしっかり調査をしたかったが、それは直属の上司である神保という課長に却下された。
「加納くん。匿名の通報だけじゃ弱いよ。その子のお父さんは、県会議員の浮田一臣先生の筆頭秘書なんだろう?」
(それがなんなのだ。政治家の秘書だと虐待はしないと決まっているのか?)
秋穂は心の中で毒づいた。あの父親は、いかにも表裏のありそうな顔をしていた。あの父親は、佐野享吾は、秋穂の勘ではクロだった。
同じ朝。佐野享吾は、浮田の議員事務所に向かって車を走らせていた。ハンドルを握りながらずっと、昨夜、遺体安置所で対面した娘のあすかのことを考えていた。
(もっと悲しそうな顔をするべきだった)
そんなことを考える。
(いや、悲しみより前に、もっと驚きを表現するべきだった)
そんなことを考える。それから享吾は、娘との最後の会話も思い出す。
「パパ。私、全部、知ってるんだからね」
そう言って自分を睨みつけたあすか。あの、可愛げの無い表情。
と、助手席に置いてあるバッグの中で、スマホが鳴り出した。ワン・テンポ遅れて、ブルートゥースで連携している車のナビゲーション・システムのスピーカーからも着信音が鳴り始める。享吾はハンドルの左下側にある「」のボタンを押した。
「もしもし」
若い男の声が車内に響いた。
「佐野さん。お久しぶりです! ニュース見ましたよ!」
それは今、享吾が最も聞きたくない声 だった。男はやけに楽しげに、
「佐野さん。まさか、実の娘さん、殺しちゃうなんて!」
と言ってきた。
「ふざけるな。俺は殺してなんかいない」
享吾は即座に否定した。
「またまたあ」
「本当だ。殺してなんか、ない」
「じゃあ誰が殺したんですか?」
目の前の信号が赤になる。ブレーキ・ペダルを踏んで車を止め、享吾は言った。
「ヤマモトさん。俺は、あんたが殺したんじゃないかと思ってるんだが」